日経連のいう「雇用の安定」と「国民生活の質的改善」の内容は、結局、以上のようなことであり、いろいろ粉飾をこらしながら、独占的大資本だけが「危機からの脱出」をはたそうというもくろみであるが、このような戦略では悪魔の循環を増幅するだけであり、独占的大資本自身も危機から脱出できないし、不況対策としても逆効果とならざるをえない。
日経連のブルーバード・プランにもとづく「日本の経済社会の構造改革」自体が、その焦点は「国際競争力の維持・強化」のための「高コスト体質の是正」にあり、結局、人件費・賃金の極小化をねらっている。
その当然の帰結として、98春闘を直接のテーマとした「構造改革下の労使交渉と労使関係の新たな役割」も、人件費・賃金の極小化をとことん追求する主張・内容となっている。
その冒頭で、「労使交渉をめぐる環境は大きく変化している」として、「単に賃金引き上げのみが問題なのではなく、計画的な総額人件費や賃金決定のあり方、人件費の適切な配分が重要である」という。
ここで「単に賃金引き上げのみが問題なのではなく」とのべているが、その真意は、もう賃上げなんて論外で、これから賃金問題といえば総額人件費の抑制を基本とした「賃金の配分」問題賃金体系問題である、と主張しているのである。
なぜそういえるのかといえば、すでにみた「国民生活の質的改善」論のように、賃上げは論外として物価の引き下げで「生活改善」を説いていることからもあきらかだし、第7章でも「賃上げ重視から政策重視への転換」という言い回しのもとに、賃金問題(賃上げ重視)から物価問題(政策重視)への問題領域の「転換」(回避)が一方的に宣言されているからである。
さらに、そもそも日経連の「生産性基準原理」にてらしても、「ここ数年の経済状況や今年の経済環境からみて、ほとんど生産性の伸びが見込めないなかでは、国民経済のマクロレベルでみるかぎり、賃上げの余地はないことになる」と日経連は釘を刺しているのだ。
ミクロ(個別企業)でも、「報告」は賃上げの道を閉ざしている。
すなわち、「個別企業における賃金決定は、自社の支払能力に即して行い、同時に国民経済全体の生産性を勘案することが重要である」とされ、97年版「報告」でみたように、日経連のいう「支払能力」を基準とするかぎり、賃上げはありえないのである。
日経連は「支払能力」について、「自社の成長と体質強化をめざす中長期の経営計画から導き出される」とし、さらに「企業の安定的な発展を確保しつつ、従業員にたいして無理なく人件費を支払うことができる能力のことである」(1998年版「春季労使交渉の手引き」53ページ)としている。
労働者・労働組合がもし「無理なく人件費を支払う能力」があるかと追及すれば、経営者は「わが社にそんな能力はなどと答えるに決まっている。
以上のように、マクロでもミクロでも賃上げには応じられないというのが「報告」の立場である。
日経連は、このように賃金決定をめぐって、その極小化を目標・理念としているのであるが、それはたんに賃金の基本部分だけでなく、退職金や福利厚生費などもふくめた「総額人件費」のことをさしている。
このことが98年版「報告」ではとくに強調され、「ここでいう「賃金」および「賃金決定」とは、厳密には「総額人件費」と「総額人件費の決定」を指すことに留意されたい」とわざわざ念をおしているほどである。
「総額人件費」関連で、とくに退職金が槍玉にあがり、「年功的色彩がいまだ強く残っている退職金は、年齢・勤続要素に応じた算定方式を改め、より貢献度を反映する方向への見直しを進めるべきである」とし、さらにM電器で98年4月からの導入が決まっているような「退職金の前払選択制」なども検討課題として示されている。
つぎに、98年版「報告」の新しい指摘として、小論の「はじめに」でもふれた「同一生産性・同一賃金」論がある、これは労働組合の「個別賃金要求」への対応としてだされている。
つまり、「現在の個別賃金要求は、年齢・勤続要素を基礎に、賃金格差是正を意図しているが、経済合理性から考えて、賃金水準の格差是正は、生産性の向上で対応すべきであるグローバル時代における賃金決定は、基本的には同一生産性・同一賃金の考え方以外は成り立たない」というものである。
この考え方は、生計費カーブを否定するもので(いくら否定しようとしても賃金決定における生計費原則は否定できるものではないが)、結局、「能力」や「業績」を重視して個々人の賃金決定をおこなうという「能力主義賃金」論と軌を一にするものである。
しかし、これは、「能力主義賃金」を認めつつも生計費にもとづく「格差是正」を掲げざるをえない労働組合の「ポイント賃金」要求とはまったく違う。
「同一生産性・同一賃金」論にたてば、労働者を労働時間でなく、労働の「成果」で評価することになる。
そうなれば、残業手当も支払わなくてもよい。
というより、成果で評価するのだから、残業という概念そのものがなくなる。
その意味で時間賃金の概念を否定するものなのである。
その結果、労働者はどのような状況に追い込まれるのか。
労働者は「成果」で評価(それも企業の恋意的な評価)されることによって、際限のない労働強化と長時間労働にかりたてられることになる。
要するに、この考え方は、労働者を労働強化にかりたて、同時に、人件費の削減をはかろうというねらいをもつものなのである。
この点について98年版「報告」は、「今年の労使交渉で一部の労働組合から複数年協定の要求が提出される動きがある。
賃上げ問題に偏重した従来の労使交渉を見直そうという考え方や労働協約の本来的なあり方にそった提言は評価できる」としつつも、「ただ一方、中小企業においては賃金などの労働条件の固定化を懸念する声もあり、結局、労使交渉や賃金協定のあり方をどうするかという問題は、個別企業労使が自社の経営状況などに即して決めるべきである」としている。
個別企業で勝手にやれ、これが結論だ。
この評価・表現は、97年のものとくらべて、基本的に変わっていない。
97年「報告」は、いろいろ述べつつも結論的には、「労使交渉や賃金決定のあり方をどうするかという問題は、個別企業労使が自社の経営環境などに即して決めるべきである」、つまり勝手にやれというものであった。
96年版「報告」もこれと基本的に同じで、「隔年交渉への移行が論議されているが、その是非については個別労使の慎重な検討に委ねられざるをえない」というものであった。
このように96年、97年、98年の「報告」は、「隔年春闘」論にたいして、基本的に同じスタンスであるとみてよい。
端的には、ここ21年同じだ、こう言い切ってよい。
そこで想起すべきは、この21つの「報告」がすべてN・日経連会長時代のものである、という点である。
そこで、N・日経連会長時代はどうだったか、ふりかえってみたくなる。
永野会長時代には、92年、93年、94年、95年と4つの「報告」がでている。
隔年春闘論が浮上(正確には再浮上)したのが93年のなかばだったという事情から、「報告」がそれを取り上げるようになったのは94年版と95年版の2回である。
まず94年版をみよう。
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